国際ロータリー第2580地区 東京武蔵野中央ロータリークラブ 今週の卓話

「江戸の祭り”山王祭り”について」(2016/8/25)

「江戸の祭り”山王祭り”について」(2016/8/25)
横山 義文さん/東京北RC(紹介:飯村 雅洋会員)




初めまして、只今ご紹介に預かりました東京北RCの横山です。
 ひょんなことから、飯村様から祭りについて卓話をしてほしいとの依頼を受けました。
 元々お祭り関係の仕事をしているわけでもなく、そんなに詳しいわけでもないのでと固辞しておりましたが、本日皆様にお配りした冊子をご覧になってとにかく何か話せということで、本日お邪魔した次第です。
 さて、日本の三大祭りというと、大阪の天神祭り、京都の祇園祭、そして東京は日枝神社の山王祭を言います。
また江戸の三大祭りは、神輿深川、山車神田、だだっ広いは山王様と言われるように、深川八幡祭り、神田祭り、そして日枝神社の山王祭と、どちらにも名前が出てくる由緒あるお祭りが日枝神社の山王祭です。
 この日枝神社は、太田道灌が1457年に江戸城を築城した際、川越日枝神社より分祀(ぶんし)し江戸城内の鎮守としたのが始まりで、徳川家康が1603年に征夷大将軍となり江戸に移封されたとき、江戸城の紅葉山に遷座(せんざ)し、江戸城の鎮守としました。
二代将軍秀忠の江戸城改築の際に、社地を今の国立劇場と最高裁の辺り隼町に遷座(せんざ)し、やっと庶民が参拝出来るようになりました。
このころのお祭りは地域の鎮守様として毎年行われており、今から400年前の元和元年(1615年)三代将軍家光の時代に江戸城に今で言う神幸祭が入るようになり、これが天下祭りと言われる由縁であります。ちなみに神田祭はその73年後の1688年に神輿練り物が入場しています。
天下祭りと言われるようになってから、お祭りの費用のかなりの部分は、なんと幕府が費用を負担していました。その費用は数千両とも言われております。
日枝神社は明暦3年(1657年)の通称振袖火事と言われる大火で社殿が焼失した為に四代将軍家綱が現在の赤坂に遷座(せんざ)させ、現在に至っております。この地は、江戸城から見て南西の位置にあり裏鬼門に位置します。
徳川綱吉の時代(1680年)、俗に犬公方と言われ庶民にひどい政治しか行っていないと思われておりますが、初期には真面目に将軍権威の向上に努めていた時代があり、勘定吟味役を設置したりと、積極的な政治改革を行っており、そうせい公方と言われた家綱から幕府の威信を復活させようと努力していました。
その綱吉の時代1688年に神田祭が初めて御上覧を行い、意気に感じた庶民が、莫大な費用を掛けて神輿や山車を作成し、今は見ることはありませんが屋台を引いて、その上で芸能を見せるとか、何町小町とか何町三人娘とかを乗せたりと、大いに盛り上がる付祭りを行っていました。これではいくら幕府が費用の一部を負担していても、神田祭と山王祭のお互いの神輿や山車がどんどん華美になり、規模も大きくなり幕府から支給される以上の費用を掛けだしてしまい、江戸の町が疲弊するまでとなりました。
屋台は、八代将軍吉宗が止めさせたという記録も残っております。
実際に両方の祭りが毎年行われていたのは、わずかに6、7回程度だったと伺っています。実は神田祭りには、幕府から費用の負担がなく、大店の商人たちが負担を強いられていたことで、結果的に町が疲弊してしまったのです。
そこで、当時は聡明な綱吉の一言で山王祭と神田祭を隔年に行うようになりました。
日枝神社側はどちらかというと武家屋敷が多く、当然武士は余裕がありませんから、無理なことは出来なかったというのが本当の所ではないでしょうか。
ちなみに山王祭の将軍の御上覧は、106回を数え、神田祭は山王様が初めて御上覧してから73年後に入城したので39回と数では比べられません。本日神田祭りにご縁のある方が居られましたら、ご容赦願います。

まあこのようにして江戸時代から続いている日枝神社山王祭りですが、基本例大祭は、6月15日を中心に祭礼が行われています。
今年は、6月7日縲怩P7日の期間で行われましたが、それこそ江戸時代と違い祭礼期間も曜日の配慮をしなければならなくなりました。毎回神幸祭は金曜日、上町の連合渡御は土曜日で行われており、自分が生まれたときには既に開催する曜日が決まっておりました。
今年は6月10日の金曜日に神幸祭が行われました。お配りしました冊子の12,13ページをご覧ください。通称朱引きと言われておりますが、地図上に赤い線と青い線で順航路が示されています。赤い線は午前中、青い線は午後で色分けされておりますが、自分の所属する上町は、赤い線の坂下門までが受け持ちエリヤです。
また江戸時代の話に戻りますが、今のように神輿を台車に乗せられて移動するのではなく本当に人が担いで、あるいは引いて移動していましたので、二日掛かりで行われ、茅場町にある摂社で一泊していたそうです。
天下祭りの名残として、今でも皇居坂下門から宮司と大総代が参賀に訪れ、神符を献上しております。また江戸時代は、半蔵門から入り坂下門へ抜けるルートで御上覧をされていたように思われます。これは見にくいですが、10ページの図1に江戸時代の順航路が出ております。
現在の神幸祭は、古式装束を身にまとった600名を超える人達が、全長約300mに渡り約9時間を掛けて都内を練り歩きます。
自分は、上町に属しているので下町の事は判らない部分もありますが、上町だけで現在は19カ町、下町も19カ町あります。
神幸祭の受け持ちは、上町が山王様から坂下門までで、その後下町が引継いで警護を行っています。それぞれの地域では、この神幸祭に付祭りとして、小学生の子供たちに山車を引いてもらうなど、それぞれ趣向を凝らして祭りを盛り上げております。
上町でも公立の3つの小学校から4、5年生が麹町から国立劇場まで交代で山車を引き今では課外授業の一つとして認知されております。
もちろん警護には、学校の先生だけでなく警護方として上町の祭り組織糀町惣町睦による警護も行っています。
下町では、今回確か3回目となりますが、丸の内の中通りや、銀座の中央通りを通るように警察と協議のうえやっと通行することが出来るようになりまして、おかげでギャラリーも年々増えてきております。

次に、連合渡御についてお話します。
連合渡御とは、上町地域19カ町が連合で山車、神輿を神社へ参拝させることを言い、順航路は冊子の15ページにありますように、清水谷公園から弁慶橋を通って山王下交差点から表参道に回り込み、通称「男坂」と呼ばれる急な石段を、すべての神輿を担ぎ上げ、日枝神社へ参拝します。
今年は、神幸祭の翌日の11日夕方16時に発興しました。ニューオータニの前の道路はタクシーなどの駐車が多く、毎回駐車禁止の張り紙と三角コーンを朝の6時から立て始めるのが恒例となっております。
15時過ぎから、徐々に集まり始め、山車3台、神輿は子供神輿を入れて10騎が所定の位置につき、発興を待ちます。
梯団としては4梯団に分かれ、先導者の後にお囃子や高張提灯、子供の手古舞6人と、大人の手古舞が3名、その後に各町会の役員が続いて梯団を組みます。その後に山車1台、神輿3騎ないし4騎で梯団を組み最後に警備救護車があって終端となります。
総勢2千名を超える人達が集まるので、これを梯団ごとに弁慶橋の交差点を渡し、隊列を崩さないように進めるのは、中々骨がいる作業です。順調に進んでも最後の男坂が見せ場となりますが、前回まではギャラリーも多く御輿を上げるのにけが人が出ないかと心配していましたが、今年は神社の配慮もあり警備の方を増やして頂けたので、順調に神輿を上げることが出来ました。
この男坂では、神輿の後ろを持ち上げて楽に上げるのではなく、冊子の6,7ページに写真がありますが、後ろもしっかり担ぎ棒に肩を入れて、斜めになったまま上げて、江戸の心意気を見せる場となっております。

最後に半纏をお見せします。
半纏と法被の違いはあまりはっきりしませんが、江戸時代半纏は庶民、町民、職人を中心に日常生活で使用されており、今では神輿を担いだり、お祭りに使われるものを半纏といいます。逆に法被は、武家社会で生まれたと伝えられており、生地も薄い為にスーパーの安売りセールなどで羽織っている物を法被というようです。
今日は、先ほども話しました糀町惣町睦の半纏3枚と自分の町会の半纏をお見せします。

緑の方は、役員半纏で、紺色は通常着る半纏です。これも神輿を担ぐ時に着るのと、浴衣の下に着るものと、分けてあります。
町会の半纏も神輿用と役員用の絽の半纏があり用途によって使い分けております。
まあこのように自分も気が付くと半纏を何枚も持つことになっており、これも江戸の心意気の表れかと思うのですが、中々嵌りだすと抜けられなくなる魅力があるのが祭りだと思っております。
ご清聴ありがとうございました。

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